題目:逆境の日に考えよ 

本文:コレヘトの言葉7:11-14

趙聖模 牧師

 

序論

 

人間を考える存在と言います。人間は何かをする時に考えます。これをやるべきかやめるべきかを考えるようになります。楽しいことを考えると心が嬉しくなり、孤独なことを考えると憂鬱になります。ですから、何を考えるかによってその人の人格や人生が違ってきます。心に憂いや不安な考えを持つとより憂いが増してきます。しかし、イエス様の言われた*心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい*といった御言葉のように(ヨハネ14:1)平安を持つといつも平和な思いで生きることができます。

 

しかし、*神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ*(10:4)と言います。

悪人の心と考えには神様がいないという思想で詰まっています。この思想が拡大されたのが無神論です。では、ソロモンの教訓を通して恵みを分かち合うことを願います。

 

1. 神様は物質よりは知恵を保つことを願います(11-12)

 

ここで知恵と知識は何を意味しますか?神様に仕え畏れ敬う知恵と知識を意味します。自分の所有を保存するより神様を畏れ敬う知識と知恵をもっと保ちなさいということです。知恵は善であり有益であり、すべての人のためになります。ですから、聖書は*知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ*(箴言4:5)といい、6節には知恵を捨てるな…分別を愛せよ、彼女はあなたを守ってくれる*と言っています。ですから、知恵は尊く良い物です。知恵は人にとって喜びであり本当の幸せになります。即ち神様を畏れ敬うことが知恵です。その知恵こそが命です。

 

この知恵は命を延長させます。人間の物質は人の命を危うくすることもあるが知恵は命を守ってくれます。自身が信仰の知恵をよく保存することによって幸せと不幸が決定されます。私たちが世で生きる時には物質も必要ですが、御国に入るときには信仰で入るのです。しかし、神を畏れ敬う知恵は永遠に生きることになります。本当に知恵のある善なる人たちは神様の保護を受けます。物質が自らを救うことができるでしょうか?お金で天国へ行けるでしょうか?

 人が生きるためには物質が必要ではありますが、お金で天国への切符を買うことはできません。誰でも信仰だけで天国へ行くことができます。ですから、伝道書の著者であるソロモンは遺産よりは神を畏れ敬う知恵と知識を保ちなさいといいます。

 

2. 神の御業を見なければなりません (13)

*神が曲げたものを、誰が直しえようか?  即ち、神様がまげたものを一体誰が直すことができるかこれを神様の主権だと言います。神の主権とは*神様の独自的な御業*を意味します。神様は他の人たちと協議して御業を行う方ではありません。ここには全く人間は介入されません。ですから、神様が裁くならば誰も神様の憤りを防ぐことはできません。もしかして神様が異邦民族でも救うことを決心したならば一体誰がそれを防ぐことができると言えるでしょうか?そして、神様が定めた自然の法則は誰も変えることはできません。海の潮が満ちたり引いたりするすべてのものは神様が創った自然法則です。

 

私たちの人生の歩みにおいて迫ってくる全てのことの中から神様の摂理の御手を見つめなければなりません。辛いことや苦しみがあるとき、不平を言わずに神様がこのことを通して自分に何を悟らせるかを見なければなりません。そして、神様が行おうとすることを考えてみなければなりません。私たちはまだ、神様の行う具体的なことを明確に知りません。しかし、神様が行うことは確かに善であり、正義のものであり、最終的には最高の善を成し遂げます。

 

3. 順境の時に楽しむことです (14)

 

この世には平安な暮らしをしている者と苦しんでいる人たちがいます。重要なことは順境の時と苦しい時がみな人から来るのではありません。全能である神様は個人と家庭と教会と国家に至るまで神様が苦難も与え、平安も与えるのです。ですから、神様が苦難を与えるときは平安を与えるまで耐えて待たなければなりません。エレミヤ予言者は*災いも、幸いも/いと高き神の命令によるものではないか(エレミヤ哀歌3:38)と言います。私たちが信仰を持って生き、神様の御旨で生きる時には幸いを受けます。生死禍福が皆神様から来るのです。

 

物事が順調でうまくいくことも神様の御手に掛かっています。失敗して滅びるのもみな神様の摂理の中にあります。箴言の著者ソロモンは*主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道/暴言をはく口を、わたしは憎む* (箴言8:13)といいます。全てのことが神様の摂理の中でよくなり、うまくいき、繁盛する時こそ謙り、低い姿勢で神様に正しく仕えなさいといことです。このようにすることは易しくはありません。

 

しかし、*主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め*だと聖書は言います(箴言9:10)。人は神様に仕えることが基本です。そして*いかに幸いなことか、常に恐れを抱いている人(箴言28:14)と証言します。順境な時に神様が祝されるときこそ多く祷り、敬虔な生活をしなければなりません。平安な時より一層熱く賛美し、奉仕し、伝道しなければなりません。現在、皆さんの生活が成功的であるならば体も思いも精神も命をも尽くして神様に仕えることを願います。

 

4. 逆境の時に考えなければなりません。(14)

 

順境の時や苦しい時は実はその日だけのものです。一日の順境が一週間、一か月又は二か月続くこともあります。同じように苦しい日も一日が十日、一二か月持続することもあります。人間は誰も苦しい日を望む人はいないと思います。それがなくても人生は生まれる時から老いて行き、病で死んでいく人生です。人生の歩みには良き日よりは険しい日が多いとソロモンは言います。彼は世の富や栄華をすべて味わった王です。その名の通り平和の王でもあります。しかし、彼は老年に聖書を記録しながら人生の日が幸せな日よりは険しい日が多いと言います。

 

では、逆境の日は何を意味しますか?これは苦難の日です。私たちの信仰生活の中で苦難が来るときは自分のことを見つめなおす機会にしなければなりません。考えるという言葉はヘブライ語の原文では“ラア”です。これは“見る”“自覚する”“感じる”という意味です。苦難を通して自分の欠点と汚れと罪が何であるかを見て、感じて、自覚しなさいという言葉であります。いつ自信を見守る機会がありますか?それは苦しみを受ける時に自分をもう一度見つめなおすことができます。平安で順調な時には自分自身を深く見つめることを知りません。しかし、苦難を受ける時には心が弱くなり易いです。体も弱くなることもあります。

 

この時を赤信号だと思わないで自身を深く反省し自責する機会にならなければなりません。私たちの人生の歩みに順境の日を与え、逆境の日を与える目的は何でしょうか?神様がこの二つを併用なさる理由があります。本文14節後半を見ると“人が未来について無知であるように”と記録されています。私たち人間は現在の事や将来に起きることを全く知ることができません。順調な日が続くかそれとも逆境の苦しい苦難の日が伸びるかは誰も知りません。

 

それどころか、人は自分がいつ死ぬかも知りません。人間の生命が、呼吸がいつ止まるのか人は知りません。ただ人間を創られた神様だけが知るのみです。世においてあまりにも順調すぎると自分も知らないうちに高慢になります。しかし、神様に頼る者の暮らしはどんな立場であっても自分を深く考えることができる人です。人生が苦しく辛い時に誰を思いますか?聖書は死の苦難を受けられたことで栄光と尊い冠をかぶったイエスをみたとヘブル記者は言います(ヘブライ1:9)。自分のために十字架で死なれた主を見上げる時、最も大きな恵みが臨む時間になります。人生の逆境と試練が問題ではありません。

 

それより大切なのは苦難の主と栄光の我が主イエスキリストを見ることができないのがより大きな問題です。逆境の中でも我が主を見つめ、黙想し、平安を得ることができさえすればそれは恵みであります。苦難を通してむしろ恵みを体験することになります。自分をより低くし、見つめなおす契機になるからです。我が救い主イエスキリストは謙るためにこの世に来られたのです。そして、自身を贖いの供え物として捧げたのです。

私たちがどんなに苦しみを受けたとしても主が受けられた苦難には比べものになりません。私たちに逆境の日が多いならば主イエスキリストの十字架を思い出しながら自分を深く見つめてください。そして、順調な時には以前よりも増して低くなり謙遜な姿勢で我が主イエスキリストに頼って生きることを主の御名で祝福します。