説教
설교
涙の祈りを奉げる人
趙聖模 牧師
列王記下 20:1-3
オリバーホルドン(Oliver Holden)は神様に栄光を奉げる賛美を書きました。
わが魂が苦難を受けるたびに父のもとに行き、父がすべての祈りに答えてくださるので神様はどこにでもおられる”祈祷は神様の御旨より神様自身により強力な影響を与えるのです。ですから、祈祷は神様のあらゆる力を持っています。今日、本文ではヒゼキヤ王が死ぬ病にかかりました。そのため予言者が来て、あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから家族に遺言をしなさいと言いました。ヒゼキヤ王は紀元前728年に南ユダ王国の13代王です。
彼がユダを統治した期間は29年であります。彼の命が延長された期間15年を引くと結局彼が死ぬ病気にかかった時は統治して14年の時のことです。ヒゼキヤ王の先祖たちは偶像崇拝に溺れていました。彼らは神様に背き裏切りました。そして正直でもありませんでした。しかし、ユダ王ヒゼキヤは神様の目に適う真実の王です(烈王下18:1-8)。その結果は7節と8節に表されています。成功し勝利したのです。彼は善いことを行った善い王です。偶像を禁じて聖殿中心の宗教改革を起こした王です。神様は偶像を造ってはいけない(出20:4)、ひれ伏し、仕えてもいけない(出20:5)と言います。しかし、こんなに善い王が死にかかっています。どんなにもどかしいことでしょう? でも、彼は祈りで神様の御心を変えてしまいました。
元来、神様の御心は変わるものではありません。自然の万物は変わっても神様の思いは永遠です。しかし、神様の心を変えるただ一つのものがあり、それが祈りです。では、ヒゼキヤ王の祈りはどんな祈りだったかを調べながら恵みを分かち合いましょう。
1. 神様の御心を変えたい祈りです。
1節によると“そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった”と言っています。自分が死ぬ病気だと知りながらも彼は祈ります。 2節には“ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った”と言っています。彼は王であるが顔を壁に向けました。これは悲壮な覚悟と決断のある祈りです。どんな決断ですか? 神様が定めたことであっても一度変えたいとのことです。ヒゼキヤ王は神様の御心は知りません。しかし、神様が定めたことであっても祈りによって神様の計画を変えてみたいとのことです。これはこの世で精神を集中して道を極めるような修練ではありません。自分の全人格をすべて神様に奉げる祈りを意味します。そして、ヒゼキヤは顔を聖殿に向けたことでしょう。イエスキリストは私たちの聖殿であります。ですから、私たちは祈る度に我が救い主イエスキリストを仰ぎ見なければなりません。
2. まことを尽くし、ひたむきな心をもって奉げ2る祈りです。
3節に“主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください”。事実私たちの祈りの弱点はいつも真実さが足りないところにあります。人には偽善が通じるかも知れませんが、神様の前では真実でなければなりません。人には自分の恥ずかしいことを隠せば隠すほどいいでしょうが、神様の前では裸で真実を差し出すことが良いです。ヒゼキヤ王は神様の前で真を尽くしました。そして、神様にすべて頼りました。聖書は言われます。“主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる”(歴代誌下16:9)と言われます。祈ることを軽視すると破滅を受けます。よく祈る人は人生も成功するようになります。神様は真心で祈るヒゼキヤの祈りに応えます。歴代誌下30:20節には“主はヒゼキヤの祈りを聞き入れ、民をいやされた”と記されています。同じように神様が私たちの祈りを聞き入れこの国とこの民を癒すことを願います。
3. 涙の祈りです。
3節には“ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた”と言います。普通の祈りも尊いが涙の祈りはそれより誠に尊いです。涙の祈りには神様が応えてくださいます。ヒゼキヤ王には特に恐れがあります。今、国が危機にあるからです。そして彼の王位を継承する息子は3年後に出生するからです。ですから、こんな時期に死ねば国の安定が心配だからです。詩人もこのように祈ります。“わたしの涙に沈黙していないでください” (詩39:12) 。詩人も老年に病にかかった時、涙で求めたのです。そして“あなたの革袋にわたしの涙を蓄(たくわ)えてください”(詩56:8)と言います。
涙の祈りは神様の御旨と計画も変える力があります。涙のある祈りは力があり、人々を感動させます。涙がないことは恵みのない証拠です。私たちの石のように硬い心が解けるのが神の恵みであります。イギリスのジョン.フラベル(J, Flavel)牧師は女子信徒が病気で苦労していると聞き、その家庭を訪問しました。そして、御言葉で慰め激励しました。しかし、あまりにも苦しくて話をまともに聞くことができません。この姉妹が食卓にあるガラスのコップを取り、このように言います。先生! 私の人生はこのガラスのコップのようですと言いながらガラスのコップを地面に投げつけました。しかし、このコップが床に落ちて壊れることなく転がり床に立ちました。その瞬間牧師が言います。あの壊れないガラスのコップのように神様があなたを必ず生かすでしょう。その言葉に慰められしばらくしてから神様がその姉妹を癒してくれたのです。人は優しくなるとき恵みを受けます。人は悲しくて泣くこともあるが、苦しみにあうとき泣いたりもします。ですから、大切な涙を所有したければ適当な苦難も受けてみるべきです。いつも平安な時には安逸になり祈りが沈滞することもあります。イーエムバウンズ(牧師は祈りについてこのように言います。“祈りは生きている人が神様とあうことだ。祈るとき神様が腰をまげ人に口づけをし、人に祝福をあたえる。祈りは人の空しさを神様の恵みで満たす。祈りは命である。祈りは輝き、恍であり、永遠の命である。中身のない祈りや元気のない冷めた祈りの習慣を捨てなさい。
祈りの尊い炎が燃え上がり、天と地が祈りの香りで漂い、まだ胎の中にいる民族が私たちの祈りで祝福を受けるようにしょう”と強調しました。ヒゼキヤ王の祈りは直ちに応えられます。イザヤ予言者が宮殿近くに到着する前に彼が回復されるという便りを与えたのです (4-5節)。神様は話したことは取り消しません。特にヒゼキヤ王の涙を見たと話されます。(5節) “わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た”と神様はいいます。神様は“わたしはあなたをいやす主である”(出15:26)と言います。そしてあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上らせると言います。即ち、三日目に神様の聖殿で感謝の祈りを奉げるようになるとのことです。それだけでなく、命も延長してくださいます。6節によると“わたしはあなたの寿命を十五年延ばし”と語っています。彼が54才又は55才まで生きられるようになったのです。ヒゼキヤ王は病が癒されることだけを求めましたが神様は命を与えました。そして、敵から守り保護することを約束しました。これはヒゼキヤ王にボーナスの人生を許したのです。
結論的に私たちも神様の恵みでボーナスの人生を生きているのです。私たち人間はいつ死ぬかも知りません。神様だけが知っています。ですから、残りの生涯を自分の欲するままに生きてはなりません。自分の思いのままではなく神様の御心を成し遂げる人生を歩むことを祝福します。