説教
설교
題目: 誇れるものはなく、恵みだけがあるのみです 趙聖模 牧師
聖書:ローマの信徒への手紙3:26-27
序論:
傲慢は信仰を危うくします。傲慢は罪の中でも神様が最も憎む対象でもあります。人類の祖先であるアダムは神様の命令に従わなかったためエデンの園から追い出されました。
それ以後全ての人間は、男は汗を流す苦労をすることになり、女は産みの苦しみを受けることになりました。アダムとエバが堕落してから全ての人が腐敗してしまいました。 エレミヤ13章23節には * クシュ人は皮膚を/豹はまだらの皮を変ええようか? と証言しています。
救いは神様の恵みによってのみ与えられます。ですから、人間が神様の前に立つ(神様の先に行く)ことは出来ません。キリストを通してのみ神の前に立つことが出来ます。
1. 律法では救いは得られません
旧約では律法を守る人は正しい人とされます。エゼキエル18章9節によると *わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる*と語っています。
しかし、パウロは律法を実行することによっては誰一人神の前で義とされない* (ローマ3:20)と言っています。
それは律法によって救われないというのは罪に対して弱い存在であるからです。
特に神様は“律法と行いを通して救いを得なさい”とは言っていません。何もしなくても我が主イエスキリストの血潮を信じるだけで救いを得ると言います(ヨハネ1:12)。
26節で“今この時に” と言われていますが、ここで*とき*(カイロス)という言葉は時間的なある時点を意味するのではありません。それは神様が救おうと定めたときを意味するのであります。そして神様は十字架を通して神様の義を表します。
ですから、義とされた人はイエスを信じる信仰を持っている人を指します。
ある人は、救いは一方では恵みによって得られ、そして、もう一方では行いによって得るものではありませんか?と言います。しかし、救いは恵みと信仰によって成就されます。
行いと恵みが共同で協力しあって救いが得られるのでは決してありません。恵みは行いではありません。私たちがどんなに汚れが多く、足りなく、失敗だらけであってもそれは問題にはなりません。
なぜなら、恵みによって救いを受けるからです(エフェソ2:8-9)。
みなさんが本当に救いを受けたならば天国は私たちのものです。
2. 誇れるものはありません(27節)
27節においての行い、即ち律法の行いというのは、律法がユダヤ人に約束された民として守ることを求める行いを意味します (カラテヤ2:16)。
ここでも律法の実行によっては、誰一人として義とされない*と語っています。ですから誇れるものはありません。
パウロは本文27節で人の誇りはどこにあるかの質問に対して*それは取り除かれた*と答えています。なぜなら十字架の犠牲を通して現れた救いは全ての信じる者たちに差別なく与えられるからです(ローマ3:22)。
神様の前では誰一人誇ることは出来ないと聖書は証言しています(コリントⅠ1:29)。なぜなら、人間は完全に堕落したため罪しか持ってないからです。
神様が立てられた計画はただ恵みだけです。私たちが神様に選ばれたのは私たちの行いによるものではありません。そこには人間の努力や功労はありえません。聖書はわたしたちを天地創造の前からお選びになったと書いています(エフェソ1:4)
神様が人間を選んだのです。
ある人は我が主イエスキリストを信じたが、他の人たちは神様の恵みを拒んだので滅びることになったのです (ヨハネ1:13)。
結論:
神様の前では誰一人誇ることが出来ないため、罪人たちも受け入れられるのです。過ちと罪のために死んだ人間には誇れるものは何一つありません。
ですから、誇りはなく、恵みだけがあるのみです。人は善い行いの前に救いを受けなければなりません。善い行いは救いを得た後に神様の恵みに感謝して行うものです。クリスチャンにとっての救いは誇れるものはなく、ただ恵みだけがあるのみです。
神様の恵みがみなさんの家庭と教会とこの民族の上にいつもあるように切にお祈りいたします。