エペソ3:17-19       イエス・キリストの愛とは何か 

加古川国際キリスト教会 趙聖模 牧師

讚美 : 416、417465

イエス・キリストの愛は十字架の愛です。

キリストの愛ははっきりしないとか空虚ではないのです。無条件の愛なのです。キリストは愛であり、その愛はキリストです。キリストの愛に根ざしその上に基礎をおいている人は、キリストの中に固定させているのです。それではキリストの愛をどなたが知っているでしょうか。

1、イエス・キリストの愛を知る人とは。

1)ただ心のうちに住んでいるキリストの愛を知ることができます。19節

*人知をはるかに越えたキリストの愛を知ること* *知ること*という単語は二つの意味があります

一つは単純な知識です。

イエス・キリストの愛を持たない多くの人々がいます。キリストに対する愛は全くもっていながらもキリストを一つの聖者としてみてるいる方がいます。キリスト教に対する知識はあるかも知れませんが、イエス・キリストの愛とは何の関わりもないのです。

使徒パウロは知識は人を高ぶらせ(Ⅰゴリン8:1)と証言します。パウロはすべての知識は愛で生ずると言います。我々人間はどんな感情か分かるようになる時は経験を通じて分かるようになります。愛を經驗人だけがその愛についてわかります。愛の甘ったるさをご存じですか。またひもじさが分かるためには飢えて見なければなりません

甘い味が分かるためには蜂蜜を試食しなければなりません。苦い味が分かるためにはよもぎを試食しなければなりません。苦痛の苦い味を見た人だけが悲しみ会った人を理解することができます。私たちがキリストの愛を確かに知って信じれば私たちの心には信仰の搖れることがないでしょう。

私たちはキリストに対する愛が分かる前にキリストに対する愛を所有しなければなりません。またキリストの愛が何なのか分かる前にキリストに対する愛を経験しなければなりません。このキリストの愛が分かることがめぐみであり、祝福です

2.イエス・キリストの愛の広さは何でしょうか。 18節

1)キリストの愛の広さとは。18

その愛の広さは人類全体を包括するほど広いのです。その愛は海よりも広いです。(ヨブ記11:8-9)イエス・キリストの血しおはこの地球上にいるすべての人類の罪を許すのに十分な愛です。イエス・キリストの愛を誰が敢えて阻むことができるでしょうか。イエス・キリストの愛は永遠です。

2)イエス・キリストの愛の長くとは。 18節

キリストの愛の長さは永遠から永遠までを意味します。キリストの愛は永遠です。私たちの中で罪を許しを受けた経験がありますか。罪の許しをたくさん受けた体験がありますか?

私たち主イエス・キリストの愛が分かるようになるでしょう。キリストを愛しない人はは平安がないでしょう。しかし我らの主イエス・キリストを愛する人には大きい平安があるでしょう

3)イエス・キリストの愛の深さとは? 18節

キリストの愛は地獄より深いです。どんなに大きい罪を犯した罪人と言っても神様の前に出ることができない位大きい罪人はいないのです。永遠に滅ぼすべき罪人たちですが十字架につけられたイエス・キリストを私の救い主に信じる人は救われるのです

キリストの愛の深さは最も低くなったベツレヘムの飼葉おけとガルボリ丘の十字架から神様の御座までです。これがキリストの愛の深さです。神様の息子であるイエス・キリストが僕の形象をとって苦難とあざけりと侮辱を受けて十字架の死の最も低い場がまさにキリストの愛の深。さになるのです

我らの救い主イエス・キリストの愛は人間のすべての悲しみより深いのです。何故ならばキリストの愛は人間の罪悪がいくら汚くて醜いとしてもそばめるないためです

キリストの愛が最も低い飼葉まで下りました。ですので人間の霊が言えない惨めな地境に落ちると言ってもイエス・キリストの愛の手を待っています

4)イエス・キリストの愛の高さとは。 18

キリストの愛は天よりも高いのです。一言で言えば、キリストの愛は無限なのです。 この愛をおそれ測量することができないのです。

罪悪の深い場から天の御座に上がるのです。宇宙万物の中でもっとも高い所にある輝いて美しい場所はイエス・キリスト中にいる神様の愛です。この神様の愛が具体的にどこに現われたのでしょうか。

十字架で現われたのです。我ら救い主が十字架につけられ苦難を受けて、そして死ぬことで神様の愛が罪人たちにはっきりと現われたのです。ですのでみなさんが真に神様を信じたならばイエス・キリストを愛するでしょう


結論:

イエス・キリストの真実な愛を知ることを望んでいますでしょうか。十字架につけられキリストのために苦難を覚悟して命捧げて祈り続け、伝道してください。これからは生きるにしろ死ぬにしろかイエス・キリストの愛を実践しながら生きて行きましょう。一人の霊が神様の御前に帰って来るまで忍耐してキリストの愛を実践するのを切に願い祈ります。