説教
설교
題目: 最上の選択
趙聖模 牧師
聖書: 創世記13:8-17
人は生涯選択しながら生きていきます。これか? あれか? 二つの中の一つを選択しながら生きます。何より重要なことは神様中心であるか? それとも人間中心であるか? を選択しながら生きなければならない時があります。真理中心か? それとも非真理も許すべきか? という時代に生きています。ですから、人生の歩みの中で難しいと言えばそれは選択であります。
今日の本文は人生の重要な方向を信仰で決定できなかった人である“ロト”と神の絶対的主権だけを見つめ、信仰の道を選んだアブラムを対照させています。では、この本文を通してロトの選択とアブラムの選択の基準を調べて恵みを分かち合うことを願います。
1. ロトの選択の基準は現実中心である物質を選びます。(10-11節)
“13:10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。13:11 ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた”と聖書は仰せになります。
ロトは人間的な目で見るに美しく肥沃な土地を選びます。彼は欲のために叔父と血肉の絆を断ち切る覚悟をします。彼は叔父アブラムについて行ったので祝福を受けたのです。ですから、神様の人たちと共に歩むことが祝福です。しかし、彼は信仰なく物質に対して貪欲が生じます。だから、神様よりも物質をもっと愛します。彼の思いと関心はただ物質だけです。結局彼は神本主義を捨て人本主義を選択します。
Ⅱテモテ6:7-8節では6:7 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 6:8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです“と仰せになります。私たちは主が与えたもので満足して生きなければなりません。この世の物質に捕らわれると主を喜ばすことはできません。
ですから、彼は自分の天幕を移す時に神の御旨を求めるのではなく、目に見えるまま現実中心に世俗的な欲望を持って選んだのです。そして彼は財産が増え安定した生活が得られると、行ってはいけないソドムの町まで天幕を移したのです。どんなに信仰の強い人であっても罪の多い街に住むと罪に汚染されやすくなります。
敬虔な者が堕落するのは一瞬のことです。それなのに自身の信仰さえもまともに守れないロトがソドムの町に入ったことによって自身と家庭を破滅させる結果を招いてしまったのです。ロトの財産はソドムとコモラが硫黄の火に焼かれる時全て燃やされてしまったのです。聖書は言います。 (創19:24-26)
本文 13節によると“ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた”と聖書は語っています。全ての人が神の御前では罪人であるが当時のソドムの町の人たちは邪悪で心の頑固な荒々しい人たちでした。ロトは物質にだけ近づいたことで神様とは離れてしまったのです。
聖書は言われます。“神の近くあることがあなたに幸いである” (詩73:28)と証言しています。この世に苦難と痛みが多いことは事実です。これを否定することはできません。しかし、私たちが一つ克服できる道があります。それは地上に希望を置かないことです。永遠の御国を見上げましょう。そして毎日神様と共に歩む恵みが臨まれることを切に願います。
2. アブラムの選択の基準は神の絶対的主権を信じることです 9節
アブラムは神様が自身の遺業になることを確信しました。本文9節によると“ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう”と聖書は証言しています。アブラムも人間ですから衣食住のための土地と財産が必要です。
しかしアブラムはエジプトに行った時妻を異邦人の王であるファラオに奪われた経験があります。その苦痛を彼は覚えていたでしょう。さらにファラオ王に辱めの財産をもらったことを心に刻んだことでしょう。物質のために良心を騙してはなりません。いつかは消えてしまう財物を自分の物のように考えてはなりません。
神様が私たちに与えた健康と財物があるときに周りの苦しむ人を助けましょう。そして宣教にその物質を使いましょう。例え私たちが所有する物が少なくともアブラムのように神様の絶対主権だけを見上げて暮らしましょう。私たちが息のある生活をするそれ自体が神の恵みであります。
アブラムはこの世の財物は可変的であり、いつでも風のように消え去り、燃やされるしかないことを悟ったのです。ですから、彼は柔和で謙遜な心で全能の神様だけに頼り、神の絶対主権を信仰の目で見上げたのです。聖書は言われます。“主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた” (創12:7)と証言します。
神様はアブラムに乳と蜜の流れる約束の地を彼の子孫に与えることを先に仰せになったのです。甥のロトと財産のことで互いの羊飼いたちが争い緊張感が高まる前に約束を与えたのです。ですから、アブラムは神様の絶対主権を確実に信じたので甥であるロトに先に選択権を譲りました。ロトは自分の意思で決断し選択します。ロトは選択権を受けると少しも遠慮することはしません。
恵みの中で生きながら物質を支配することが知恵であり祝福です。ですから、アブラムは選択権さえも神に委ねたのです。アブラムは神様の絶対主権を見上げるのでヨルダンの野原で安定した余裕のある生活よりは渇いた砂漠だとしても神様が共にいるところで神様を高めながら生きることを願いました。ロトは肥沃なヨルダンの全地域を選びました。そこはまるでエデンの園のようです。そしてその渓谷はとても素晴らしい展望です。彼はこのような潤った土地を選べばそこでお金持ちになり、長く生きられると思ったのです。
しかし、アブラムは目に見えるものを選びません。みすぼらしくつまらない山岳地帯である残りの土地を選択します。彼は目に見えるままに選択したのではありません。私たちにとって重要なのは目に見えるものより見えないものがより重要です。聖書は言われます。“主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない”(詩34:9)と言われます。私たちが信仰生活をする時に物質的なものに優先順位を置いてはなりません。神様の側に立ちましょう。人の思いや知識、知恵で判断しないでください。
14-15節によると“13:14 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。13:15 見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える”と言われます。
すなわち、このことはアブラムが神様の絶対主権を見上げる信仰が大きくなればなるほど彼の子孫を天の星の数のように海辺の砂と大地の砂の粒のように繁盛する祝福を与えると神様は約束されたのです(16節)。私たちも生涯神様の絶対主権だけを見上げて生きましょう。そして伝道しましょう。人を愛しましょう。 物質の問題も神様に委ねましょう。
IIコリント4:17節には “わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます” と言っています。私たちは覚えておきましょう。艱難は一時的であり栄光は永遠であります。ですから、一時的に受ける艱難を我が救い主エスキリストの喜びで克服しましょう。来世の永遠な栄光を毎日見つめながら希望の中で待ちましょう。私たちは生きるための生命を選択しましょう。私たちは神様の祝福を受けるためにただ神様の絶対主権だけを信じて生きましょう。
話を結びます。短い人生を生きる間忠実にイエスを信じて信仰を守ることが大きな喜びであり、恵みであり、祝福です。私たちにとって本当の宝は神様を畏れ敬うことです。聖書は言われます “信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける” (マルコ16:16)。今日も全能の神様に頼り神の絶対主権だけを信じて生きましょう。イエスキリストを真実に信じましょう。信仰の祖先であるアブラハムに与えた恵みと祝福を私たちにも与えるように切に祝福します。